大島紬

およそ1300年の歴史を持ち、世界で最も緻密な織物といわれる本場大島紬。たくさんの人の手から手へと、都合30数工程にもおよぶ手作業によってのみ、あの精巧で美しい絣織ができあがります。
今回は、大島紬の歴史の話題を中心に、時を超えて女性達の心を捉えて離さない、そんな大島紬の魅力に迫ります。

大島紬のはじまり


紬の発祥の地はいったいどこなんでしょう。
大島紬のふるさとである奄美大島は、鹿児島~沖縄間のほぼ中間に位置し、大島本島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の5島からなっています。

奄美における養蚕の歴史は古く、奈良朝(710年~793年)以前にさかのぼるといわれ、その頃から手紡ぎ糸によって「褐色紬」なるものが作られていたようです。この褐色紬、品質はとても高く、遣唐使を通して当時の朝廷に献上された記録も残されています。

染色方法としては、奄美に自生するテーチ木や他の草木等で染められていたとされ、現在行われているテーチ木泥染のルーツである事は容易に想像できます。

江戸時代

江戸時代初期の大島紬は、真綿から紡いだ手紡ぎ糸を使い、植物染料で染めたものを、いざり機で織り、無地や縞模様が中心だったようです。

当時奄美諸島は薩摩藩が琉球王朝(今の沖縄)を侵攻する為の中継点として、「道の島」と呼ばれていましたが、慶長14年(1609年)、ついに薩摩藩は、道の島を経由して一気に琉球に侵攻し、奄美諸島も薩摩藩の藩政下におかれることになりました。

奄美の特産品である「さとうきび」に目をつけた薩摩藩は「黒糖政策」を開始、奄美の人々は過酷な労働と上納を強いられ、それは明治の初め頃まで続きました。 また、薩摩藩はその頃すでに高級品として評価の高かった大島紬も租税として徴収し、ついに一般の人々が紬を着用することを禁止する「絹布着用禁止令」を発令、大島紬の生産もまた、厳しい管理下に置かれるようになったのです。

泥染めの誕生


庶民は身に付けることのできない大島紬。当然その生産は徹底的な管理の元で行われていました。規則に従わない者には厳しい処罰。そんな時代背景の中、次のようなエピソードが残されています。
ある日、抜き打ち検査で代官の取り調べを受けた農家の主婦が、あわてて自分用に隠し持っていた大島紬を泥田の中に隠したそうです。あとで取り出してみたら、テーチ木染めの茶褐色が、なんともいえない黒に染めあがっていたのです。これが泥染のはじまりといわれています

テーチ木に含まれるタンニン酸と、奄美の泥に多量に含まれる鉄分が化学反応を起こし、あのつややかで深みのある黒へと変化します。以降「泥染め」という奄美ならではの技法は大島紬の代名詞となりました。

奄美大島に自生し、南国ムードあふれる「ソテツ」。ソテツは漢字で書くと、鉄を蘇らせる「蘇鉄」と書きます。蘇鉄が自生する土質は泥染め向きで、泥田の鉄分が枯れてくると蘇鉄の葉を刻んで泥田に埋めます。蘇鉄の葉に含まれている鉄分が溶け出し、再び泥染めができるようになります。

また、奄美の泥は古代地層のため、丸く細かい粒子になっています。だから、デリケートな絹糸を傷つけずにやさしく染め上げることができるのです

明治時代


ずいぶんと長い間、薩摩藩による圧政に苦しめられてきた奄美大島ですが、明治6年、ついに薩摩藩からの独立を果たし、本格的に大島紬の生産も始まりました。

特に明治10年西南の役終結後、大島紬は鹿児島県を始め大阪など都心部の市場にも持ち込まれ、初めて奄美の人々による商品取引が開始されました。そして、明治16年には、今まで坐り仕事で体力的にも非常にきつかった「地機」を見直し、高機(いすに坐るような形で作業ができるもの)が考え出されました。
これは大島紬の歴史の中で画期的な変革といえます。結果、今までつらい仕事だった大島の織り手も増え、生産量も増加しました。

柄の文様もそれまでの縞や、格子などの幾何学模様から、曲線を使った模様を織り出すため、下絵の上に絹糸を置き、手括りで絣を作り出す方法が考え出されました。

明治18年には鹿児島市でも奄美の人々による大島紬の生産が始まり、明治24年頃以降は日清戦争後の好景気を迎えました。大島紬の名は全国的に広まり、加速度的に需要が増大。原料となる糸も真綿からの手紡ぎ糸では生産が間に合わず、28年頃より練玉糸を使用するようになりました。
その後需要が伸びるにつれ、流通段階で粗悪品が出回るようになり、憂いを感じた関係者諸氏は明治34年、鹿児島県大島紬同業者組合(現在の本場大島紬協同組合)を設立し、厳しい検査基準を設けました。

当初は合格基準があまりにも厳しかった為、組合員に加入する者が少なく、せっかくの組合機能が生かされない時期もあったそうです。

しかし、初代理事を始め関係者の熱意により、徐々に「組合の趣旨」に賛同し、加入するものが増え、大島紬は再び、元来の高度な水準を守ることができたのです。 また、明治34年頃から機締めによる絣作りが研究され始め、明治42年頃、ようやく絣糸を織るための織機(締機)が完成しました。それまでの手括りと違い、絣糸を織機によって織り上げるこの方法は、なお一層精巧で緻密な絣模様の紬の生産が可能になりました。

大正時代から昭和にかけて


大正5年には鹿児島市に鹿児島織物協同組合が設立され、奄美と同様、厳しい検査基準が設けられました。大正10年頃からは練玉糸にかわって本絹糸が原料として使われるようになり、生産性がさらに向上しました。

昭和30年以降、従来の泥染大島紬に加えて、泥藍大島紬、色大島紬、草木染大島紬などの新製品も開発され、色のバリエーションが増えました。 昭和34年にはベルギー万博で本場大島紬が銀賞を受賞。

昭和50年には大島紬は伝統的工芸品に指定されました。 最近では従来の反物(丸巻)に加え、後染め加工を施した大島紬の訪問着も、「非常に軽くて着やすい」ということで人気があるようです。また大島紬を絞りの工房が手 を掛けて「竜巻絞り」や「蜘蛛絞り」などに加工したものも、けっこうおしゃれです。

大島紬の魅力

大島紬の魅力は、まずその着心地の良さにあります。その上軽くて着崩れがしない。また、着込めば着込むほど肌になじんできます。

素材としては、上質の細い絹糸を使い、一反の重さはわずか450グラム。テーチ木染めと泥染めとの繰り返しで、糸の表面を薄い膜が覆い、樹脂加工の役目を果たしている為、汚れが付きにくく、水にも強い性質を持っています。

日本紬織物フェスティバル

毎年5月に、日本紬織物文化協会主催の「紬織物フェスティバル」が行われます。全国各地の織元さんが勢ぞろいし、織りや染めの実演を見ることができます。普段お店で見られないような希少な商品も見ることができる貴重な機会です。その独特な風合いに触れながら、長く着ることができる紬の魅力を体感してください。

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すずのき・絹絵屋の紬の着物

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